Monamily in Paris

20代の頃は全く英語が話せなかった私が三十路過ぎて海外の大学院を修了したお話。

【語学学習】「なぜ日本人は英語が話せないのか」という議論について

今回は、今まで何となく語ることを避けてきた英語学習に関する話をしようと思う。

何となく避けてきたと書いたが、理由は単純かつ明確である。
せっかくブログをやるからには、読者の方に面白いと思ってもらえる記事を書きたいし、そのためには自分にしか書けないような記事を中心にしたい。
同じ純ジャパでも私なんかより英語ができる人なんてワンサカいるわけで、それを専門にブログを書いてる人も星の数ほどいる中で、差別化できるような内容が無ければ記事にしても仕方ないのだ。

とはいえ、たまにはこういう記事も良いかなということで、なるばく自分の経験に基づいて思ったことを、時々書いていきたいと思う。

 

結論から先に言うと、タイトルの「なぜ日本人は英語が話せないのか」という議論に対する私の答えは「単純に必要がないから」である。

必要性が人に与えるパワーは凄まじい。普段の休日は昼まで起きれない人でも早朝便で旅行に行く予定があれば朝5時に飛び起きるし、何となくダイエットを始めた時は中々痩せられなかった人でも結婚式間近に本腰を入れたら目標達成できている。

ジムの筋トレでも資格の勉強でも楽器の練習でも、「モチベーションが上がらなくて全然進まない」と悩んでいる人は多いが、モチベーションが上がらないのはそもそも必要性が無いからではなかろうか。どんな人でも必要性があれば、やる気スイッチは自動的にオンになるものである。必要性が無くて、やりたい気持ちもそこまで強くないなら、そもそもやらなくても良いのでは無いかと思う。

母国語で高等教育が受けられる日本人は恵まれている。ノーベル化学賞の授賞式での英語のスピーチが下手であれば、それは母国語だけで受けられる教育の水準がいかに高いかを物語っている。
一方、新興国出身者の多くは母国語で高等教育が受けられないため、良い大学に行って高い収入を得るためには、英語を習得することが前提条件となる。
さらには、紛争地域など母国の政治情勢が不安定であれば、生き抜くためには他国に移住するほか選択肢がなく、そのために英語が話せないと話にならないという場合もある。
尚、同じ先進国でも、島国日本と違って欧州のように隣国が近い存在であれば、英語をはじめとする近隣国の言語を学ぶことは有意義な場合が多い。

日本人が英語を勉強する理由は何だろうか。子どもは学校の試験や受験が理由の場合が多いが、大人の場合は、「海外旅行を楽しみたい」「字幕なしで映画を楽しみたい」「日本語では得られない情報を収集したい」「外国人の友達を作りたい」「海外で仕事をしてみたい」「何となくかっこいいから」「暇だから」――――――ざっとこんなところではなかろうか。

これらは、他国の人たちが英語を勉強する理由と比べて、どれも必要性という点で弱いことが見て取れるだろう。
海外旅行はGoogle翻訳地球の歩き方があれば英語力は無くても何とかなるし、字幕があれば映画は一応楽しめるし、日本語の情報収集だけでも死活問題にはつながらないし、日本語が話せる外国人も沢山いるうえに日本人だけでも友達候補は1億人近くいるわけだし、日本語だけでも年収1千万円稼げる職業は沢山あるし、カッコいいことなら英語以外にも沢山あるし、暇なら他のアクティビティでも良い。

ちなみに、私が29歳の時に英語の勉強を始めた理由は「暇だから」であった。仕事で予定されていた大きな契約交渉が1つ延期されて毎日定時上がりだったうえに、趣味で嗜んできた音楽にも限界を感じ、何か目標が欲しかっただけだった。
幸運にも、たまたま楽しいと感じて継続することができたため、今に至るわけだが、もし他にもっと熱中できる何かがあったら、英語学習は続けていなかっただろう。

私の実家は小高い丘の上にあるため、実家で暮らしていた頃は、最寄り駅に行くために毎日急な勾配の坂を上り下りする必要があった。
当時はそれが当たり前だと思っていたので気付かなったが、実際この坂の勾配は本当に大層なモノだったようで、おかげさまでスポーツも特にやっていなかったのに両脚の筋肉が発達したくらいだ。
確かに、坂の途中でおばあさんが休憩しているのをよく見かけたし、小学生の時にはお年寄りから「一人じゃ登り切れないから手を貸してほしい」と声をかけられたこともあった。高校生の時に13cmのピンヒールで出かけた時は、下り坂が急すぎて木の枝につかまりながらゆっくり下りないと前に進めないほどであった。
実家がそんな不便な場所にあったせいで、その他の場所では可能な限り歩きたくないと思い、エレベーターや階段やバスなどは最大限活用した。
こんな状況であったがゆえ、他の町に住む当時の同級生たちが「運動のためにバスには乗らず歩こう」「健康のために階段を使おう」などと言っていた理由が、全く理解ができなかった。
私は坂を歩いて上らないと家に帰れないから仕方なく歩いて上っている。他の手段があるのに何でわざわざ疲れる方を選ぶのか、不思議で仕方なかった。

この時の私の感覚は、生きるために英語を勉強せざるを得ない新興国に生まれた人が「なぜ日本人が英語を勉強するのか理解できない」と疑問を抱く感覚に近いような気がする。

 

こんな状況なのだから、日本人に関しては必要性を感じる人や面白いと思う人だけが英語を勉強すれば良いというのが私の考えである。
仮にどうしても日本人全員の英語力を上げたいのであれば、小学生の英語教育なんかに力を入れるよりも、TOEICの点数と将来貰える年金の金額を比例させるみたいな方法の方が良い(TOEICじゃなくてIELTSの方が良いとかそういう話は一旦置いておこう)。
要は、やらざるを得ない状況、必要性を創り出せば人は動くのだ。

尚、「学校教育や教科書が実用的でないから話せるようにならないんだ」と文句を言う人もいるが、今よりもっと酷かった時代でも話せるようになっている人は沢山いるのだから、これも言い訳だと思う。
とある年配の有名な翻訳者が「中学校の教科書でThis is a penという文章を見た時、『"これがペンです"は英語でThis is a penと言うのか。何て面白いんだ』と思った。もっと英語を勉強してみたいと思い、NHKラジオ講座を欠かさず聞いて勉強に励んだ」と話していたのを覚えている。
「This is a penなんていつ使うんだよ(笑)」と教科書を馬鹿にしていた大半の日本人は英語が話せないままだったのに対して、教科書のフレーズをきっかけに自ら学習したこの人は、翻訳を生業にするほど高度な英語力を身に付けた。
さらに、今の時代は無料で利用できる教材・音源などがオンラインで簡単に手に入るわけだ。自分の努力不足を学校教育や教科書を理由にするなんて図々しいにも程がある。

そして「海外で生活すれば英語が自然と話せるようになる」と未だに妄信している人が多いのも困ったものである。
童謡「赤い靴」には、異国へ渡った女の子は青い目になって異人さんと暮らしているのだろうという歌詞が出てくるが、明治時代には外国に行ったことのない人が殆どであったがゆえ、「外国に行くだけで目の色が青くなる」と信じていた人も少なくなかったのかもしれない。
同じように、海外生活に馴染みがなければ「海外で暮らせば英語が話せる」と何となく思ってしまうのは仕方ないことかもしれないが、決してそんなことはない。
臨界期を迎える前の子どもの場合は事情が異なるが、少なくとも大人の場合は事前に基礎をしっかりと勉強してからでなければ、海外で暮らすだけでは英語は思うように上達しない。

これは楽器演奏、特にジャズに置き換えるとわかりやすい。
「ジャズが上手くなりたければジャムセッションに行って色んなプレイヤーとの即興演奏を経験するのが一番だ」と言われているが、これはあくまでも基本的な楽器の弾き方を覚え、一通りの音楽理論を勉強し、プロ奏者の演奏を沢山聴き、フレーズの引き出しを準備し、個人練習を重ねた後の話である。
音楽理論もわからず、楽器の弾き方もわかっていない人間が急にジャムセッションに現れても、何も出来ずに終わるだけなのは火を見るよりも明らかである。

同様に語学学習の場合も、文法を理解し単語を覚え構文解釈や速読精読の訓練を重ね、ネイティブスピーカーの話す音源を沢山聴き、英作文やスピーチの練習を自分で行ってからでなければ、海外移住や留学などをしたところで話せるようにはならないのだ。

 

いずれにせよ、日本語と英語は言語としてかけ離れすぎているので、もう少し地理的にも近い国の言語を先に勉強した方が本当は良い気がする。
焦って小学生に英語をやらせるくらいなら、日本語と多少は近似性のある中国語や韓国語やベトナム語などをやらせてみた方が、近隣国との関係性を向上させるうえでも良いのではないだろうか(同じように、近隣国の子どもには日本語も勉強してほしい。欧州のようにアジアでも近隣の外国語を勉強することで、お互いの国のことを理解するのは大事だと思う)。

 

英語を勉強する必要性がないのであれば無理にやらなくて良いと思う一方で、「なぜ日本人は英語が話せないのか」という問いに対する回答の方向を見誤ってしまうと、仮に必要性が生じた場合にも正しい行動をとれない可能性が高い。

今後の記事では、第二言語として習得する英語の在るべき形など、自分なりの考えを発信していけたらと思う。

 

※「色々考察」シリーズの記事一覧は以下のリンクよりご覧いただけます。

monamilyinparis.hatenablog.jp