Monamily in Paris (...in London/in Tokyo/in New York/etc...)

派遣留学でパリの街に恋し、東京でアメリカ軍人の夫と結婚し、日系企業の駐在員としてロンドンで単身赴任中の私の純ジャパ奮闘記

【語学学習】第二言語としての「英語」について

英語学習系のウェブサイトや書籍などを眺めていると、「ネイティブはそんな表現は使わない」「それは和製英語だ」「ネイティブみたいに発音するには」などという言葉をよく見かける。
こういった類のアドバイスや忠告・豆知識は、英語圏の国に長く住んでいた人やアメリカのドラマ・映画などにどっぷり漬かって育ってきた人、あるいは日本語堪能な英語ネイティブスピーカーなどから得られる有用な情報であり、我々純ジャパとしては有効活用していくべきであることは否定できない。

だが、その一方で昨今の日本における英語教育では「ネイティブみたいに」と意識するあまりに、特に初級者の英会話力発達に支障を来しているケースが見受けられるような気がする。
一昔前と違い、ネイティブスピーカーの音源を簡単にインターネット等で聴くことができるようになった今、「ネイティブの使わない表現を使ったら恥ずかしい」「ネイティブみたいに発音できなかったら恥ずかしい」「日本人っぽい英語を話すのは恥ずかしい」という潜在意識は日本人の中でどんどん高まりつつある。
その多くは、"Hello, how are you?" "I'm fine, thank you. And you?" "My name is Tom"みたいなザ・教科書なフレーズを馬鹿にして、ネイティブが自然な会話で使う表現に傾倒していく。

勿論、生活に困らない程度に普通に英語を使いこなすことができる中上級者であれば、生の英語に沢山触れてネイティブが使う表現を積極的に覚えて表現力を磨くのは良いことだし、手加減無しのネイティブスピーカー同士の会話に付いていくためにはリスニングの観点でも必須である。
現に私自身の課題はこの段階にあると自覚しており、ネイティブの自然な会話のシャワーを浴びて句動詞・熟語・スラングなどをもっと吸収し、発音も向上させる必要があることは痛いほど認識している。
今、「英語を話せるか」と聞かれれば「話せる」と答えるが、英語圏の国に住んだこともなければアメリカの映画・ドラマに漬かって生きてきたわけでもないので、ザ・非ネイティブな不自然極まりない言い回しをしていることも多いと思う。

しかしながら、日常の簡単な会話もままならないレベルの学習者であれば、あえてネイティブを意識しすぎる必要はないというのが私の考えだ。
過去の記事で述べた通り、臨界期を迎える前の子どもがインターナショナルスクールに行くなど完全英語漬けの環境で過ごす場合は話が別だろう。だが、普通の日本人が第二言語として英語を学ぶという前提の話であれば、ネイティブを意識しすぎる必要はないと思う。

日本の中学・高校(現在は小学校もだが)では、英語圏の国から来たネイティブスピーカーの講師(AET)が日本人教諭とペアになって行う授業があるが、他国ではネイティブ講師を公立校で採用しているケースは少なく、英語の授業も現地教諭のみで行われることが多い(それどころか、フランスでは国語(フランス語)の教諭がギリシャ人というパターンもあるらしいから驚きだ)。
ネイティブスピーカー講師の存在を否定するつもりはないが、そもそも簡単なフレーズさえ話せないレベルの小中高生にネイティブ講師は必要なのかは疑問に思ってしまう。
実際、ネイティブスピーカーがいることで、同じように正しく発音できないと話すのが恥ずかしいと委縮してしまう子どもが増えるというデータもあるようだ。
以前、インド人から「インド人は正しい発音がわからなくても辞書を引かずに、自分の読みたいように英文を読む。教員も正しく発音できないから生徒も正しく発音できないままだが、それでも会話が成り立つのでそもそも気にしない」という話を聞いたことがある。
さすがに上記は極端な例かもしれないが、いずれにせよインド人はインド人のアクセントで堂々と英語を話し、香港人香港人のアクセントで堂々と英語を話し、フランス人はフランス人のアクセントで堂々と英語を話す。
勿論、きちんとネイティブスピーカーの発音を勉強して、ネイティブのような標準的な発音で話すインド人だって沢山いるし、それはそれで素晴らしいと思う。
しかしながら、挨拶程度の会話しかできない日本の小中高生の場合、ネイティブ発音を意識しする前に、まずはカタカナ発音でも話すことに抵抗感をなくすことの方が大事ではなかろうか。
尚、リスニングのためにネイティブがいた方が良いという意見もあるかもしれないが、リスニングなら録音音源で十分である。

 

英語は最早ネイティブスピーカーだけのモノではない。
むしろ、母国語の異なる非ネイティブ同士が意思伝達する手段として使われる割合の方が大きい。

このことは、私の場合、非英語圏の国に現地語がろくに話せない外国人として住んでいた経験によって改めて実感させられた。
西洋人も人によって英語力はまちまちで、私の大学院の同級生たちのように粋な慣用表現を使いこなすハイレベルな話者もいれば、教科書通りの表現を中心に使うような話者もいたが、後者であっても全く支障なく高度なディスカッションができる人は沢山いた。
海外移住前、日本では「I'm fine, thank youなんて誰も使わない」と教科書を揶揄するYoutubeや書籍を沢山目にしてきたが、海外で暮らし始めてから、実際にこのフレーズを使っている西洋人に何人も出逢うことがあった。
だが、彼らは自分の言いたいことをきちんと英語で伝えられるし、英語で高等教育を受けたり仕事をしたりするのには全く支障がないレベルの英語力を持っている。
彼らは「外国人と会話したりビジネスすることは頻繁にあるから英語は話すけど、別に英米のカルチャーに漬かって生きてきたわけじゃないしそんなに興味はないので、英米人しか使わないような表現は知らん」と思っているのだろうか。いずれにしても、私が今まで日本で見たことがある英語ペラペラの人は大概英語圏の国にどっぷり漬かってカルチャーを吸収したような人ばかりだったので、そうではない属性で英語ペラペラの人々は新鮮に感じられた(実際、日系企業で英語を日常的に使う会社員はこの属性に分類される人が多いと思うが、当時の私は純ドメスティックな仕事しかしたことがなかったので馴染みが無かった)。

そもそも、第二言語として英語を話す我々が、ネイティブと同じように話す必要があるのだろうか。
言語は出自や文化的背景の鏡である。日本語でも、訛りや方言はその人の出身地・アイデンティティの表れとなる。
方言を耳にすると「この人はコテコテの関西弁を話すから、ずっと大阪で育ったのかな」「この人は色んな地方の方言が混ざった言葉を話すから、転勤族の家庭で育ったのかな」と、その人のバックグラウンドを想像することができる。

昔の日本では、方言を良からぬものとして上京後は隠そうとしたりする風潮が強かったと思うが、現代ではむしろ方言は個性として尊重される。
そして、現在は標準語として使われている言葉の中には、元々方言だった言葉も少なからずあるだろう。地方出身者が東京で友人と話すときに自然と使っていた言葉を、周りも特に方言かどうかなんて意識せず自然と使うようになり、若者言葉として世の中に浸透し、それが時代を経て標準的な日本語の中に溶け込んでいくのだ。

パリで暮らし始めて最初の大晦日、私は自分より5~10歳程度若い所謂Generation Zに分類される多国籍の外国人留学生たちと年越しパーティーをした。
年末年始もコロナ禍の夜間外出禁止令により夜20時から朝6時まで外に出ることができなかったため、年越しに何かしようと思えば必然的に朝まで帰れない。

その年越しパーティーで、山手線ゲームのようなゲームをすることになり、お題は「花の名前」となった。
但し、全員が理解できるように英語名で答えないと駄目というルール。
そんな中、タイ人の女の子が「Sakura」と答えたので、私はすかさず「サクラは英語じゃないやん!はい、アウト~」と言い、酒を飲ませようとした。
ところが、彼女はポカンとした表情で「え、サクラって英語名じゃないの?」と聞き返してきた。
「いや、日本語だからw」と苦笑いしたのは私だけで、他の外国人たちも不思議そうな顔で「え、英語でもサクラって言うよな?」「うん、あたしもサクラって言う」と次々に口にし出した。
「え、じゃあ英語だと何て言うの?」とタイ人の女の子から聞かれたので、「Cherry blossomだよ」と答えたが、彼女は「うーん、でも私はサクラ知ってるし、皆もサクラ知ってるみたいだから、サクラは英語ってことでいいしょ!ってことでセーフ!」と開き直ってしまった。

ゲームの勝ち負け云々よりも、Generation Zの外国人たちがSakuraを英語だと思っていたことが私にとって面白い発見であった。
日本でも、近年どんどん新たな外来語が日本語になりつつあるが、今回のようにその逆のケースもある。
方言が標準語に溶け込むのと同じように、外国語から輸入された言葉が自然と自国の言葉に溶け込む現象も、世界中で起きているのだと実感させられた。

さらに、春を迎え、大学院のクラスメイトとの会話の中で、私は誰にも通じないと半ば理解しつつも「Hanami」という単語を自ら口にした。
単純に、Picnic under the cherry blossomsというのが長くて面倒だったので簡潔に花見と言いたかっただけだが、友人から「Hanamiって何やねん?」と聞かれたので説明すると、「めっちゃええやん、それ!」と言われ、それから彼らもHanamiという単語を使い始めた。
なるほど、こうやって方言は標準語になっていくのかと妙に納得した。
少なくとも、パリ市内で暮らす数人の外国人の間では、Hanamiは共通言語として英語の中に取り込まれたのである。

さらに、お互いの母国語だけではなく、今まさに自分たちが会話をしている土地の言葉を自然と採り入れるパターンも多いだろう。
つまり、和製英語や仏製英語のように、本来の英語だと意味が変わってしまうような言葉もそのまま使われることが多く、むしろその方がその土地では適切な表現でわかりやすかったりする。
例えば、フランス語ではアパートの管理人のことをGardien/Gardienneというのだが、私は英語で話していてもそのままGardianと言ってしまう。恐らく英語ではApartment Managerとか言うのが正しく、Gardianだと別の意味になってしまうが、フランスに住んでいる者同士なら通じるし、むしろその方が自然だ。
同じように、日本に住む英米人たちも、英語で話していても集合住宅を指す言葉としては和製英語のMansionを使っている気がする。日本語では3階建て以上の鉄筋コンクリート造の集合住宅をマンションと呼ぶのが正しいのだから、日本に住んでいればそのまま英語にしてMansionで良いのだ。

言葉は変化するし、会話の輪の中にいる全員が理解できれば、それが辞書で認められた標準語である必要性はない。
青森の人と鹿児島の人が話すとき、お互いに方言で話すと通じない可能性が高いので、恐らく標準語に近い言葉で話すことになるが、別に東京の人と同じ話し方をする必要はない。同様に、フランス人と日本人が英語で話すときも、別にアメリカ人やイギリス人と同じ話し方をする必要はないだろう。
相手が理解できる程度にマトモな英語を話せるという前提であれば、お互いの異国情緒なアクセントや独特の表現があった方が面白い。決してネイティブの発音に固執しすぎる必要はない。

それが、共通語としての「第二言語」を話すということなのだから―――――。

 

※「色々考察」シリーズの記事一覧は以下のリンクよりご覧いただけます。

monamilyinparis.hatenablog.jp