Monamily in Paris (...in London/in Tokyo/in New York/etc...)

派遣留学でパリの街に恋し、東京でアメリカ軍人の夫と結婚し、日系企業の駐在員としてロンドンで単身赴任中の私の純ジャパ奮闘記

"Let it Go" から読む日本人とフランス人とアメリカ人の違い

以前の記事(ジブリ・ディズニー映画のセリフを原語と吹替で比較 - Monamily in Paris)で、ジブリとディズニーの原語と吹替版のセリフの違いについて考察したが、吹替版は各国の文化を反映していることが多く、大変興味深い。

今回は「アナと雪の女王(Frozen)」の "Let it Go"の日本語版とフランス語版の比較が面白いと感じたため、記事にしたいと思う。

本題に入る前に1つ話しておくと、巷にはやたらと吹替版を否定する人たちがいるが、それは少し違うのではないかと思う。
時々、英語が得意な人が「Let it goは"ありのままの姿見せる"なんて意味じゃない!」と、痛烈に日本語吹き替え版を否定しているが、そもそもアメリカと日本では文化も違うわけで、日本語版には日本人らしいエルサがいて良いと思うし、直訳である必要なんて全くないというのが私の考えだ。
原語と文化はリンクしており、切り離すことはできない。だから、原作を原作者の意図通りに理解したければ原語で映画を見るしかないし、それが外国語を勉強する目的にもつながる。現に、私も「モアナと伝説の海」に関しては初めから英語音声・英語字幕で観たのだが、「やはり映画は可能な限り原語のままで理解した方が良い」とつくづく実感した。
一方、吹替版には吹替版の良さもあるのに、「原語と意味が違う」というだけで頭ごなしに否定するのはいかがなものかと思う。
ディズニーの吹替版の多くは上手に作られていると思うし、直訳でないという理由で翻訳者の仕事を否定するのは、お門違いである。

さて、前置きが長くなったが、「アナと雪の女王(Frozen)」の "Let it go"の原語・日本語版・フランス語版を実際に比較していこう。

この曲のサビの部分を見てみると、

原語:
Let it go, let it go  Can't hold it back anymore
(これでいいの、構わない もう何も隠さない)

日本語:
ありのままの姿見せるのよ

フランス語:
Libérée, Délivrée  Je ne mentirai plus jamais
(自由になって、解き放たれる。もう嘘は吐かない)

となっている。
また、サビの最後は

原語:
The cold never bothered me anyway
(寒さなど平気よ)

日本語:
少しも寒くないわ

フランス語:
Le froid est pour moi, Le prix de la liberté.
(寒さは自由を手に入れるための代償よ)

となっている。

上記のとおり、アメリカ人のエルサと日本人のエルサとフランス人のエルサの人格はだいぶ別人のようである。
さらに、声優の演技や歌唱力が合わさると、余計に別人格となる。

Let it Goのサビを歌うときのエルサの心境を考えたとき、原語(英語)版では「今まで頑張って隠して来たけど、もういいじゃない。もうどうにでもなればいい、構わないわ」という感じに、「堪えてきたものを手放す」というニュアンスが強い気がする。
実際、声優のイディナ・メンゼルさんの歌い方は力強く、エルサの面持ちも「重荷を手放して清々した」ように見えてくる。
また、サビ終わりの「The cold never botherd me anyway」も、「寒さなんかに悩まされることなんてない。私は平気よ」と結構強気で言っているように聞こえ、彼女は明確に「寒さなんて私にとって問題ではない」と宣言している気がする。

一方、日本語版のエルサは、サビ冒頭で「ありのままの姿を見せる」と言っており、この時点で「堪えてきたものを手放す」ことを強調している原語版とは少しニュアンスが違う。
周りに合わせることや協調性に重きが置かれる日本社会では、本当の自分を見せることを躊躇する場面も多い中、日本語版エルサは勇気を振り絞って「これが本当の私なのよ!」とアピールしているのである。
日本語版エルサの声優・松たか子さんは素晴らしい女優だと思うが、歌唱力は高くない(多少ボイストレーニングの知見がある私に言わせれば、アナ役の神田沙也加さんの方が歌唱力は断然高い)。
だが、少し苦しそうに歌う松たか子さんだからこそ、日本語版エルサの繊細な心を表現できているわけで、世界的に評価が高いのも頷ける。
また、サビ終わりの「少しも寒くないわ」も、彼女の歌い方も相まって反語的に「少しも寒くないわ(本当は少し寒いけど、大丈夫、大丈夫よ・・・)」と自分に言い聞かせているように聞こえる。アニメーションは原語版と同じなのに、音声が日本語版だと「繊細だけど強気に振る舞う、成人を迎えたばかりの若い日本人女性の表情」に見えてくるから不思議なものである。

さらに着目すべき点としては、原語版の「寒さなんて平気よ」は「寒い」という事実を受け入れたうえで「そんなことは気にしない」と言っているのに対し、日本語版は「少しも寒くない」と「寒い」という事実そのものを否定している。
太平洋戦争の時代、実際には日本は既に崖っぷちの状況まで追い込まれていたにもかかわらず、一般庶民には「日本は優勢だ」という情報を流し、彼らもまたそれを信じようとした。情報統制で庶民をコントロールしていたといえばそれまでだが、そもそも我々日本人は受け入れがたい事実は事実そのものを否定しようとする国民性である気がする。
仕事においても、締め切りに間に合わせることが難しい状況になっても「大丈夫、何とかなる」と言って徹夜休日出勤で乗り切ろうとするのが日本人の特性だが、これも「締め切りが早すぎる」という事実そのものを否定して、何とかなると自分に言い聞かせている一例だ。だからこそ、日本語版エルサは、本当は寒いと感じていても「寒くないわ」と強がっているのだ。
一方、アメリカ人は現実的で合理的なので「この締め切りでは無理だ」と一度事実を認めたうえでどうするかを考えるし、原語版エルサも「寒い」と認めたうえで「私にとっては問題ではない」という結論を出している。

ここで、フランス語版を見ると、アメリカ人とも日本人とも違うフランス人の文化的背景が見えてくる。
フランスといえばフランス革命。中学校の歴史の授業でも習った通り、フランス人権宣言で民衆が手に入れたのは「自由権」である。
フランス共和国は民衆が自由を勝ち取ることで生まれた国なのだ。フランス人にとって「自由であること」がいかに大切なのかは言うまでもない。
だからこそ、フランス語版エルサは、サビ冒頭では「自由になって、解き放たれる。もう嘘は吐かない」と、サビ終わりでは「寒さは自由を手に入れるための代償」と、手に入れるべき目的が「自由」だと明言している。
また、歌詞の文脈での「嘘は吐かない」というのも、原語の「もう何も隠さない」というのとは少しニュアンスが違う気がする。フランス革命前、王政に対して不満があってもルイ16世に対して本心ではない忠誠心を見せていた民衆も、革命後は「もう嘘は吐かずに本音で言わせてもらおう」と奮い立たされたはずだ。同様に、氷の上で自由を勝ち取るエルサも「もう嘘は吐かない」と宣言しているのではなかろうか。
さらに、寒さに対する解釈も、「寒いことは気にしない」というアメリカ人、「寒くない」という日本人に対し、フランス人は「寒さは代償」といっているわけだから面白い。フランス革命では約200万人の犠牲者が出たと言われているが、彼らは自由を得るためには何かを犠牲にする必要があると理解しているのだ。

「今までの自分の努力を評価し、これからはやりたいようにやろう」というアメリカ人、「これから上手くいくかわからないけど、本当に自分の姿を見せていこう」という日本人、「代償は支払ったけど、束縛から解き放たれて、自由を手に入れたわ」というフランス人―――――。

同じ作品の同じキャラクターなのに、吹替版は各国の文化的背景を踏まえたうえでの翻訳となっているため、それぞれのエルサは全く違う国籍・性格に見えてくるから不思議なものだ。

吹替版は原作の劣化版だと考える人も多いようだが、少なくとも、アナと雪の女王に関しては、そんなことはない―――――――この記事を読んで、見方が変わったと言ってくれる人が、1人でもいたら嬉しいと思っている。


※「色々考察」シリーズの記事一覧は以下のリンクよりご覧いただけます。

monamilyinparis.hatenablog.jp